習字と書道

佐藤容齋

数年前、東京FMラジオの正月番組に出演して一時間ほど書道についての対談をした。一般の人たちが日ごろ書道について疑問に思っているようなことをラジオパーソナリティーが質問し、私がそれに答えていくという内容だった。

私がテレビ番組の審査員をしたときのことや書道の上手い下手はどこで見分けるのかという質問もあったが、その後に習字と書道の違いはどこにあるのかについて聞かれた。学術的な話をするような番組ではなかったので、本質をつきながらも一般のリスナーの方々に分かりやすい話をしようと思い、私なりの解釈で先生のお手本を習うのが「習字」古典の名品を習うのが「書道」とざっくり答えた。

世間で権威があるといわれているような大きな展覧会などでも、じつは先生のお手本をもらってそれで書いて出品していることが多いことなど、そういう意味では書道と言われている活動の多くは「書道」というよりは「習字」のようなものなんですよという話をした。それに対して高校の書道の授業では古典臨書が主体となるので、かえって高校生の方が書道らしいことをしているのかもしれないということもつけ加えた。

対談ではこれ以上深い話はしなかったが、一般のリスナーにとってはあまり聴くことがない話だろうと思って、この機会に臨書の大事さを話させていただいた。

ここからは続きの話になるが、私は高校で書道の講師をしていて授業の折には、できるだけこの先の大切なことも伝えるように心掛けている。

臨書をして上手に書けるようになるのは良いことではある。しかし習う手本が先生のお手本から古典の名品になり、それを器用に書くだけでは、習字の域を越えたとは言えないのではないか。古典の名品は、何百年、何千年の時代のふるいにかけられても高く評価されている。そんな書を書いた人とは一体どんな人だったのか、また、そういう人たちを生み育てた当時の社会とはどういうものだったのか。それらにも思いを馳せて深く研究もしながら、技の向上だけではなく自らの人間性や教養も高めていく学習の継続こそが真の書道でないかと私は信じている。

限られた授業時間の中で、それらも取り入れていくのは容易なことではないが、長年いろいろと試行錯誤しながら書道の奥深さを少しでも感じとってもらえるように取り組んできた。ふりかえってみて十分なことは出来なかったが、若者たちと一緒に書を学ぶ日々はとても楽しく、どれだけ自らの書の向上にもつながっていったか分からない。それもいよいよ今年一年で一つの区切りとなる。