印と私(1)

佐藤容齋

私が篆刻を始めるようになって40年位になる。私が上京し大学に入った丁度その年に、かつて比田井天来先生の側近だった韓国出身の高石峯先生が、昭和51年に戦後二度目の来日をされた。石峯先生は天来先生に人物と篆刻家としての才能を認められるようになり、天来先生は還暦以後の書作品には全て高石峯の刻印のみを使用すると宣言され、かつ実行された。その後天来先生が亡くなり、石峯先生は日本を離れて帰国し長く消息不明だったのが、生存が確認されて昭和41年に戦後初めて来日することが出来た。

昭和51年の二度目の来日以降は、ほぼ毎年のように来られ西荻窪の旅館に滞留された。当時私は学生だったので時間も向学心もあり、何度も何度も宿を訪ねてはお話しを聴くことができた。比田井天来先生はじめ、田代秋鶴先生、桑原翠邦先生などの貴重な話をたくさんしていただいた。また、先生が外出されるときには、よくお伴をし印材の置いている店や横浜の比田井南谷先生のお宅を訪ねたことなどが懐かしく思い出される。

  (図1「画沙老人」)、(図2「秋鶴」)、(図3「翠邦」)

「画沙老人」印画像
図1 画沙老人・2.4×2.4cm


「秋鶴」印画像
図2 秋鶴・2.3×2.3cm


「翠邦」印画像
   図3 翠邦・2.4×2.4cm



石峯先生の影響で私も篆刻を始めるようになり、来日されると刻した印の印影を持っていくと懇切に添削指導をして下さった。天来先生を彷彿させるような風貌と人柄で、私ごときの若造にもたいへん優しく接していただいた。天来先生から受けたものを私たちにも同様に与えてくれたのだと思う。

篆刻のことで私が石峯先生から一番影響受けたのは呉昌碩への尊崇の念である。石峯先生は呉昌碩を印聖と高く評し、中国古印と併せて自分の目標にするよう強く推奨された。それが、その後の私の篆刻に対する姿勢に大きく影響していった。篆刻の上達法を先生に尋ねると、「古印や呉昌碩などの良い印をたくさん観ることです。」と教えて下さった。私は、それを愚直に実行し続けた。古印と呉昌碩の印の本を何冊も購入し、電車の中でも旅先でも毎日必ず持ち歩き鑑賞した。

書もそうであるように、印も良いものには、無数の見どころがある。何年後かに自分の眼が少し上がると初めて見えてくる景色がある。それが実に楽しかった。この繰り返しを40年も飽きずに続けている私の頭はよほど鈍なのかもしれないが、その分人生の楽しみが長く続く利点もあると思っている。

ここで、呉昌碩の印を一つ取り上げてみる。(図4「鮮々霜中鞠」)
  

呉昌碩「鮮々霜中鞠」印画像
図4 鮮々霜中鞠・4×4cm


『苦鉄印選』の中にも掲載されているものだが、この印影を初めて知ったのは大学生の時で最初に見た呉昌碩の印影だったかもしれない。埼玉県の越生に龍穏寺という由緒ある寺があり、その境内に桑原翠邦先生が書院を寄進された。そこでの行事の折、翠邦先生が来客者の方々に書院内の大家の作品を丁寧に解説されていた。その時奥の部屋に王一亭の絵画があった。小ぶりの屏風で雀の絵が描かれていたように記憶している。この絵を説明された時、絵に加えて押印している呉昌碩の印にも大きな価値があることを力説されていた。翠邦先生は「鮮々たる霜中の鞠」と読まれていたと思う。

丁度そのころ、書学院出版部から『苦鉄印選』が出版されていた。和とじで紙質も印泥の色も、よく吟味して実押のような味わいのある印譜集である。それだけ高価で、学生の身には中々手が出るものではなかったが、アルバイトをしてなんとか入手した。大学の同級生にそのはなしをしたら、ずいぶん不思議な顔をされたのを今でも覚えている。

印の事をはなし始めるときりがなくなるので今回はここまでに。